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依存症者本人の体験談

vol.2 「回復に繋がって」 Tさん(アノニマスネーム)

私が、ギャンブルと出逢ったのは 5 歳の時でした。

当時、両親が離婚をして父親と妹と 3 人での生活が始まったばかりの頃、鍵っ子だった 私を、父親がパチンコ店へ連れて行ってくれたのが、最初のギャンブルの始まりでした。

母親を失った寂しさを忘れたかったのか、その場所はとても居心地が良く、何もかもが手に入る感覚の夢の様な場所でした。

日頃あまり食べる事の無い、クッキーやチョコレートを紙袋一杯に詰め込んで貰う瞬間、 タバコの強烈な臭い、耳が痛くなる程の大きな音、大人たちの会話、全てが 5 歳の私を 虜にしました。

それからと言うもの、週 1 回のペースで父親とのパチンコ店通いが小学校 6 年生まで 続いて行きました。小学生の頃は、新聞配達をしてその給料をパチンコに使う感じでし た。その新聞配達のアルバイトは、中学卒業まで続いて行きます。

中学生になると同時に、パチンコ店に父親も中々連れて行ってはくれなくなり、それ ならと麻雀を覚えました。最初はノーレートで中学の友達と遊びの感覚でやっていまし た。が、途中からお金が動かないとこれ程までツマラナイ遊びなのか…と思うようにな り、父親の紹介で父親の会社の大人達と麻雀を打つ様になりました。今までとは違う、 ヒリヒリとした感覚、ドキドキ感、大人達との駆け引き、それはパチンコでは味わった 事の無い感覚でした。完全に麻雀の虜になった私は、中学の授業が終わると新聞配達を サッサと終わらせ、大人達の仕事が終わる時間を待ちました。ほとんど毎日と言って良 いほど、中学生の頃は大人達と麻雀を打っていました。

高校生になると、新しくスロットを覚えました。パチンコとは違い、自分でリールを 止められる、自分に決定権があるスロットにハマって行きました。スロットを打つ為の 資金集めとして、バイトを始め、月の小遣い、そして学校の昼休みに友達と賭けトラン プ(勿論イカサマをして巻き上げるのですが…)、そうやってスロットを打つ様になっ ていきました。週末には、相変わらず大人達と麻雀をして、お金を集めました。

高校を無事に卒業して、小さな町工場に勤めました。学生では無くなったので堂々と パチンコ店に出入りする様になりました。実家住まいだったので、給料はほぼ全額ギャ ンブルに使いました。友人から給料日前にお金を借りて、ギャンブルをする事もありま した。スロットを打ちたい為に、会社を休む事もこの頃から少しずつ増えていきました。

20 歳になり、消費者金融でお金を借りました。その時は、「ようやく大人の仲間入りが出来た。」と訳の分からない満足感を得たのを、覚えています。

最初は 1 社だけでしたが、1 社も 2 社も同じだろう…ギャンブルで儲かれば、すぐに 返済出来る…ギャンブルをするお金が欲しい…意味の無い優越感に浸りたい…等の気 持ちで、大手の消費者金融からお金を借りてギャンブル三昧の毎日でした。

当然、支払能力などある訳が無く、自転車操業でなんとか毎月凌いでいました。そん な時でも、「ギャンブルで大きく勝つ時が必ずやって来る。その時までの辛抱だ。」と、 いつも思っていました。

そんな時など来る訳も無く、借金を残したまま家出をしました。家族にも友人にも借 金の事は相談出来ず、1 人で抱え込み、苦しくて辛くて、ただ逃げて行きました。誰か に少しでも相談出来ていれば、何かが変わっていたのかも知れません。ですが、相談を して「怒られるかも」「呆れられるかも」「人からの印象が変わるかも」「助けて貰えな いかも」等の勝手な思い込みが強く、逃げる選択肢しか選べませんでした。

関東に逃げて来た私が選んだ仕事は、パチンコ店のスタッフでした。当時のパチンコ 店は、『寮付き』『食事付き』で住む場所が無い私には、とてもありがたい仕事でした。

田舎に居た時は、ギャンブルで失敗したから、「心機一転ギャンブルをしない生活を しよう。」と最初の 3 か月はギャンブルを全くしない生活を送る事が出来ました。

しかしそんな生活も長くは続かず、店の同僚と夜に開催されている競馬に行く事にな りました。断る事も出来たのですが、「せっかく誘ってくれたのだから…」「この人との 今後の関係が悪くなるかも…」「ノリが良い奴だと思われたい」この様な考えが頭の中 では、グルグルしていました。その日を境に、またギャンブルをする日々を送る様にな りました。仕事を終えてパチンコ店に行き、夜帰って来て寮で麻雀をする。以前の生活 スタイルに、少しずつ戻って行きました。仕事を休んでパチンコ店に打ちに行く事が無 くなったのが、以前と変わった所でした。

勤めていたパチンコ店が潰れ、新しいパチンコ店へ…転職先は、その後もパチンコ店ばかりに転職しました。仕事の後は、毎日パチンコ店へ通いました。毎日がつまらなく感じていたし、スロットばかり打っていても何も変わらない、のも分かって居たのですが、その場所に行くのを止める事は出来ませんでしたし、その場所に行く事を止めたく無かったのです。それからどんどんギャンブルが酷くなり、また借金をする生活になって行きました。

一番ギャンブルが酷い時に、今の彼女と出逢いました。彼女は私の為に、ギャンブル 依存症者が集まる自助グループ「GA」という場所を探して来てくれました。私は初め その場所が非常に嫌いでした。自分の話しをする事に抵抗があったし、人の話なんて聞 きたくも無かったし、その時間が苦痛で苦痛で、仕方なかった事を、今でもはっきりと 覚えています。3 か月ギャンブルから離れ、GA に通う生活をしましたが、それも長く は続かなかったです。仲間と呼ばれる事に嫌悪感があり、ここの人達よりはまだマシだ、 そして何より誰にも正直になれて居なかった事が、今にして思えば原因だったのかと思 います。また、ギャンブルをする生活に戻って行きました。

ギャンブルが止まらず、遂にホームレスとなり、生活保護を受給する様になりました。生活保護費は毎月ギャンブルに消えていきました。当たり前の様に、家賃の滞納が始まり、ご飯も食べる事が出来ない生活になっていました。

その時、以前から知り合いの女性に逢う機会があり、その女性と話をしてギャンブル依存症の回復施設に行く事になりました。行きたくは無かったし、行くつもりも無かったのですが、その時は「助かった…」「まだ生きられる…」と言う気持ちでした。

施設には、多くの仲間が居て、毎日仲間達と関わって行くうちに、仲間の話を聞ける 様になったり、自分の正直な話が出来る様になってきました。そういう事が出来る様に なった頃、仲間の中に居られる安心感や喜び、幸福感、そして居心地が良い空間・場所 になっていきました。

今では、施設を卒業して東京に戻って来て、仕事をし、家族と暮らしています。

施設の中では、仲間が常に側に居てくれたので守られている感覚でした。今は、自分 の事は自分で守らなければなりません。

その自分自身を守って行く為に、GA が必要であり、GA の仲間の中で回復し続ける 事が重要で、それは今後新しく繋がって来る、まだ見ぬ仲間への希望となる事であると 信じて、これからも回復に繋がって行こうと思っています。