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依存症の家族の体験談

vol.2 「ギャンブラーの元夫と私」 K.H(アノニマスネーム)

私は、原家族で褒められた記憶が無く、自分は欠点だらけで取り柄がなく、ありのままの自分では存在する価値が無いと感じながら成長しました。

夫と出会って、そんな私でも好きになってくれて、他の誰よりも大切にしてくれて、とても嬉しかったです。優しくてユーモアがあって、一緒にいて楽しくて安心でき、子ども好きのこの人なら、きっと幸せな家庭が築けると思って結婚しました。

結婚後、しばらくすると、パチンコで小遣いを使いすぎ、しばしば家賃滞納になる事が何度かありました。当時はちょっと使いすぎただけ、話せばわかると思っていました。

子どもが2歳のころ、突然「会社を辞める」と言い、上司に「奥さんの意見も聞いて考えるようにと言われた。明日返事をしなければならない」と返事をせかされました。ギャンブラーの約束などあてにならないとも知らず、その時の真剣な様子と熱心さ、すぐに仕事を見つけるからという言葉を信じ、了解しました。

そして、夫の両親に「心配かけたくないから、俺が仕事を辞めた事は内緒にする。おまえがどうするかは任せる」と言われ、内緒にすることを約束しました。

ところが、仕事を探していたのは、最初のうちだけ。まるで出勤するかのように朝から晩まで、毎日パチンコに行く生活でした。

優しい子供思いの夫が、家族を見捨ててギャンブルをし続ける事は無いはず。妻なら信じて待つべきと自分に言い聞かせ、誰にも相談できずに、不安と疑念に揺れ動きながら、平気なふりをして耐えていました。

半年ほどたって、退職金と失業手当が無くなりかけ、やっと本気で仕事を探し、転職できました。

これで安心と思った数年後、夫の会社は経営悪化から別の会社に買い取られ、仕事が変わり、昼夜逆転で休日はローテーションの生活となりました。

すれ違いの生活。休みは好きなことをしたいとパチンコ。会話は減り、いつも間にか、たまに電話がかかると、「お金が足りない、口座に振り込んで」という話ばかりになりました。

様々な言い訳をするのですが、私が「分かった」というと、「じゃあ頼むで」と言ってプチッと切られるというパターンが何度も繰り返されました。

初めは、夫の役に立っている自分に誇りを感じていましたが、だんだん、電話を切られた後、砂を噛むような、ざらついた嫌な気持ちを味わうようになりました。

それでも、たまに私の両親に親切にしてくれたり、子どもに問題が起こった時に力になってくれたり、彼ならではの役割を果たしてくれるたびに、かけがえの無い人と夫に感謝し、不都合な現実から目をそらしていました。

キャッシングがだんだん頻繁になり、お金使いが激しくなるばかりでうんざりしていたのに、夫や周りの人から、私のせいだと非難されるのが怖くて、物わかりのいい、“良き妻・良き嫁・良き母・良き娘”を演じることが止められなかったのです。

ある日、会社の預り金を使い込み、「○○日までに払い込まなければ困った事になる」と聞かされました。

動揺しながらも反射的に、ちょうど満期になった定期で払ってしまいました。 犯罪行為をした事実が恐ろしくて誰にも相談できず、「もうこんなことは二度とごめんだからね」と念押し、「分かった」と返事をもらって、これ以上酷い事は起こらないはずと自分に言い聞かせ、安心しようとしていました。

そんな中、夫の父が亡くなり、主人の実家は義母一人になりました。夫と夫の姉妹と私で分担して、私はパートのない週末に子供を連れて実家で一泊し、家事をしたり、お見舞いに行ったりという生活を続けましたが、3 年後、残念ながら姉と母が次々と亡くなってしまいました。

兄妹で遺産の分割が終わり、自分の遺産が手に入ると、勝手に仕事を辞めてしまい、また朝から夜遅くまで一日中パチンコをする生活に戻ってしまいました。

決めた額の小遣いだけでは足りず、支払の為においていたお金を盗む、払いに行くように頼んでいたお金もつかいこむ、果ては、当時中学生の子どもに「ママに明日返してもらって」と言ってお金をかりてまでパチンコに行く夫。相続した遺産を湯水のようにパチンコにお金を費やす夫に、我慢の限界が来ました。

何度話し合っても、泣きながら頼んでも、諭しても、逆上して怒鳴っても・・・その場限りのつじつまの合わない言い訳や、その時は理解し反省しても、結局、数日後にはまた同じことが繰り返される毎日。

あれほど優しかった夫が、何を言っても私の気持ちに全く応えてくれない。自分本位な言い訳をして、何でも人のせいにする傲慢な態度に傷つき、悩み苦しんでいました。

誰に相談しても、この苦しみを理解し、解決策を教えてくれる人がいませんでした。同情や憐みは、かえって私を孤独にし、苦しめるだけでした。

一番味方になって欲しかった母に「もう離婚しようと思う」と話すと、「そんなことを言うから、私は心配で夜も眠れない。子供への悪影響を考えなさい」と毎日電話で責められ、話す事すら許されないのだと感じてしまい、絶望しました。

追い詰められた私は、≪このまま死んだら楽になれる→でも死んだら子供たちが可哀そう→離婚しよう→子供たちから父親を奪っていいのか?→でももう限界→元に戻る≫・・そんな考えが頭をぐるぐる廻って離れず、それでも子どもの前で泣いてはいけないと、悲しみや悔しさや不安の感情にふたをして、死んだように生きていました。

この生きづらさを何とかしたくて、あれこれ探し…図書館で借りたこの本を読み終わるまで生きていよう、予約した保険センターの面談の日まで生きていよう、心療内科の診察日まで、あともう少しだけ…とわずかな希望を繋いでいくうちに、ギャンブラーの家族が集まる自助グループにたどり着きました。

初めて自助グループに行った日、同じ様な苦しみを乗り越えた人が目の前にいる事に、とても救われました。自分だけしか変わることができない、他人は変えられないと教えられ、だからあれほど言っても夫を変えることができなかったのだと腑に落ちました。

言いっぱなし聞きっぱなしで、誰も私を責めず、共感して興味を持って話を聞いてもらえる事が、ありのままの私の存在を認めてもらえたと感じられて、心が安らぎました。

「来週も来てね」と私を気にかけてくれる人たちがいることが、次の週までの命綱でした。

毎週のミーティングに通ううちに、家賃や光熱費の引き落とし口座と、キャッシングカードの引き落とし口座が同じままでは、生活が脅かされるので、夫の尻拭いがやめられないという事に気がつきました。

最初は「夫にどう言えば、心を入れ替えるのか教えて欲しい」と思って自助グループに来ましたが、だんだん自分の偏った考えや、行動を変えていく必要を感じ、スポンサーシップというやり方を始める事にしました。それは、スポンサーになってくれた先輩の仲間が、後から来た仲間を支えて、依存症者とその家族が回復するために世界中で使われている12ステッププログラムを伝えてもらうという繋がりです。

プログラムで少しずつ囚われが薄れて行き、スポンサーの提案通り、怖くてやりたくない事にも取り組み、だんだんと自分の弱さを受け入れ、変えて行くことが出来るようになってきました。

収入のアップの為の49歳での転職も、住むところの確保するため私の名義で中古マンションを買うことも、仲間の励ましで背中を押してもらって出来たのです。収入と住居が確保できた事で、かなり気持ちが安定し、自信と希望が持てました。

引っ越しが決まったころ、夫は遺産を全て使い切り、留守中に勝手に持ち出した生命保険を担保にお金を借りていました。やっと正社員で就職したものの、「借金の返済があるので家にはお金を入れられない」と言い、そのうち何の連絡もせず家に帰ってこなくなりました。

スポンサーの提案で、ずっとやりたくなくて先延ばしにしていた家裁への婚費分担請求を、連絡が取れるうちにと申し立て、調停してもらいました。

調停で決まった額を2回払った後の大みそか、夫から離婚したいとメールで申し出があり、翌日、郵便受けに夫の部分を記入した離婚届けが入っていました。

何とか回復施設につなげたいと先行く仲間に相談し、夫の妹とも話し、夫にやり直せないかと私の正直な気持ちを伝えましたが、「ずっと考えてきたこと。感謝しているが迷惑をかけたくない。子供の事で力になれる事は協力するつもりだ。」という返事にもう無理なんだと感じました。まだお互いを思いやれる内に、ありがたく別れようと思いました。

スポンサーはもちろんのこと、市役所、家裁、男女共同参画出張所、公証人役場など様々な所で相談し、公的援助を調べたうえで、現実と向き合い、自分と子供たち3人の生活を守るために離婚しようと決断しました。

届けを出す前の日、パパとは大好きで結婚したけど、ギャンブルの問題で一緒に暮らすことがどうしても無理になったと、子どもたちに説明しました。離婚しても、パパもママもあなた達の幸せをいつも願っているし、応援している。別れてもあなたたちの父親ということはずっと変わらない。連絡を取ったり、会ってもいいからね。と伝えました。

上の息子は、「おやっさんの好きにすればいい」と淡々と受け止めていましたが、下の娘は、パパのことが大好きだったので、いつかみんな揃って暮らしたいとずっと願っていたようです。ショックを受け、途中から泣きだしました。慰めたくても、「傷つけてごめん」としか言えず、それでも恨み言も言わずに、夜遅くまで、いつまでもシクシクすすり泣きながら、暗くした部屋の中で寝ようとしている娘に、胸が痛みました。

元夫に、娘が会いたがっていること、高校の入学式に来て欲しがっていることをメールで伝えると、彼の心にも娘の想いが届いたらしく、すぐに返事が来て、入学式にスーツを着て出席してくれました。子どもたちと、時々食事にも行っています。

今でも、彼の回復を祈っていますが、私は、離婚してからの方が、夫や妻という役割から解放され、以前より良い関係になれた気がします。

辛い日々があったから、無駄にした時間があったから、傷ついた日々があったから、それを乗り越えた今の私だからこそ・・・伝えられる事や出来る事もあるのではと思っています。

12ステッププログラムを伝えてくれた先行く仲間のおかげで希望を持ち、正直に生きる勇気と、ありのままを受け入れる幸せを知ることができました。

これからも、自助グループの仲間の友情と愛と希望を支えに、プログラムに沿った生き方を目指していきたいと思っています。